2011年12月31日土曜日

ザキヤマ、さんま、しゃべり過ぎる人は・・・


今や「ザキヤマ」と言う方が認識されやすいのではないか。アンタッチャブルの山崎弘也はよくしゃべる。明石家さんまも同じだが、とにかくどこにでも入り込んでいく。どんなに打たれようがめげずに突き進んでいく。その分、面白いから許されるのだが、進行を半ば無視するそのスタイルは「邪魔」と言われても仕方ない。

秩序だって物事を組み立てていきたいのに、無秩序な方へと発散する。それが新しい価値観を与えるものであればいいのだが、組み立てている側にしてみればすでに頭の中でピースは組み上がっているため不快にしか思わない。お笑いだから済む世界、編集でいいとこ取りする世界だから良いのだが、生放送など、核を常に必要とされる場ではうまく活かすことができない。明石家さんまは人を活かすことができるから司会にできるのだが、ザキヤマはうまく回せない。だから「邪魔」と言われてしまう。無秩序の果ての新たな世界を提示できないからだ。

それにしてもあんなにしゃべり、笑いを生み出す人間に友達が少ない、交流が少ないというのは驚きだ。学校でも、おしゃべりで、面白い人間はクラスの中心になるのになぜ彼はくりぃむしちゅーの有田哲平しか理解者がいないのだろうか。

そんなこと思っていると、彼はひたすら「沈黙」を貫いているのに気づく。キルケゴールがこのことをうまく説明しているが、ザキヤマはとにかく無秩序なおしゃべりを続けることで自らをひた隠ししている。寡黙な人であろうと、会話はしなければならない。会話が少ないと、分析するデータは少ないがおおよその検討は立てられる。

けれどもザキヤマのようなタイプは発言が膨大にある。データが多すぎると比較・分析が行いにくい。分類も詳細に検討して行わなければならない。そうなると本当の彼をつかみにくい。核心となる部分をつきにくい。

誰よりも内気で、誰よりも心を開かないわけだが、芸人としてはこの戦略は意味がある。芸人はとにかく視聴者には自分を悟らせてはいけない。悟られるということは、それだけの人間という証だからだ。常に何を言ってくれるのかと、視聴者をハラハラさせる展開を提示しなければならない。しかも視聴者は個々に笑いのツボを持っている。その中では彼のような漫才のようなボケを短時間で重ねるスタイルは効果的な手段となる。ただ力量は十分になければならない。ただ無駄にしゃべっているだけではダメで、発散させておきながらも、それが番組の後半の流れに影響を与えないといけない。

中堅芸人が増えそれぞれのフィールドを確立しつつある中では、あらゆる分野に乗れないといけない。そこに強引にでも乗って行き、笑いに変えられるザキヤマだが、これがより柔軟に、人を活かすことができるようになると、鬼に金棒、誰も彼に太刀打ち出来なくなり彼だけが大御所へのステージに飛んでいく。
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