2011年11月30日水曜日

下ネタは面白いのか、つまらないのか。


アンケート用11月26日のゴッドタンの『オオギリッシュNIGHT』では大喜利を主体とした下ネタを披露した。テレビ東京は何やっているのだろうかと思ってしまうのだが、見ている人からすれば、「面白いからいいじゃないか」と言われて、話が続かなそう。

それにしても下ネタというのはいけないものなのか。テレビではタブーとなっている企画ではあるが、何が問題なのかと疑問は残る。

大体、否定する側は、「ダメなこと」の一言しかない。具体的に聞いても「ダメなものはダメ」で話が終わる。トリンドル問題みたいに代表されるような、議論をストップさせる人は困ったものだ。それが新人と権力者の間なら相手を全否定することになり、新人は立ち直れないなんてことにもなる。それなら空気を読まない人のほうがまだいい。何が必要条件かが明白になるからだ。

「面白いからいいじゃないか」側にも同様のことは言える。それ一辺倒では何も埋まらない。

問題は「面白い」と「笑い」を明確に区別できていないから閉塞する。国語辞典では、「面白い」は、興味をそそられて、心が引かれるさま。興味深い。「笑い」は、喜び・うれしさ・おかしさ・照れくささなどの気持ちから、顔の表情をくずす。また、そうした気持ちで声を立てる、が主な意味だ。

つまり、「面白い」結果が「笑い」になり、「笑い」とは「面白い」ことの一部でしかない。これを裏付けることとして、脳はどう判断しているかだが、「間違いを見つけて正すことで我々の脳は「褒美として」笑いを得ている」と解釈されている。

一理はある。例えツッコミがいい例だ。文章では、「人間は、少なく不完全な情報を元に休むことなく多くの推理を立てることで合理的に日常を受け入れることができている。こういった推理を行うことで物事を簡略化したり、他者の考えに対して批判的な洞察を行ったり、合理的な決断を下せる」と書かれているが、結局のところ、人間は勝手に秩序を決めないと生きていけない。自分の中での生への理論を作っていくことで、自分に振りかかるであろう危険から回避する術を学ぶ。そんな中自分が推理した中で排除したことが実は大切なことだった、まだ不明確なままであったことを具体例で示すものが例えツッコミだ。

ボケは逆に入り口を作る。合理化する上でのキッカケが「ボケ」で合理化する締めが「ツッコミ」である。面白みがない、笑えないということは、受け手の予測範囲、頭の中での合理化できる中で収まっていることや合理化されたことに対して間違いが呈されても正されない。

下ネタがアリかナシかは、本人を形成する上での文化的側面と経験により体系化された論理とどちらが本人に有益か、有害になるかに依る。保守とリベラルの対立に似ている。ゴッドタンの下ネタも、女性でも笑いのツボは異なるわけで、どう伝えるかで面白みは変化する。
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