2012年4月3日火曜日

SPEC-正義VS正義ーの終わりなき戦い


いろいろなところでドラマ版では最終回の考察があったけど、見事に本編でそれを裏切ってくれた『SPEC ~警視庁公安部公安第五課 未詳事件特別対策係事件簿~』。

戸田恵梨香&加瀬亮は最初はどうかと思ったけど、役にうまく溶け込んでいたし、『ケイゾク』との差別化もできていたと思うし、よくできていたと思う。

ストーリーの根幹は「正義対正義」の折り合うことなき戦いをSPECという脳の覚醒状態を利用して表現している。

この手はオチが理解はできても納得しがたいことが多い。左派と右派の戦いのごとく、片方の主張に耳を傾ければ理解はできる。それが本当に個人本人が望むことかどうかはまた別の問題で、本人の環境に応じて結論は如何様に変わり、時には全く逆の立場に立つ。

人間の進化がSPECという特殊能力に現れて存在していくものであるなら、更なる多様性を生み出す世界で人間はどうあるべきなのか。 現実的に、今は学力差により何分にも世界観は異なるものとして存在する。知識を持つ人間、技術・システムを作る側は非常に複雑な系を理解し、応用して簡易化させることで人間生活に溢れ、使う側にそのシステムを考える必然性がないレベルにまで落とし続けている。

パソコンやスマートフォンの原理を知らない人間が多い、と言い換えればわかりやすいのだろう。

より楽で効用が得られる方が受けが良いのはわかる。ただその結果、家畜化されていく人間は増えていく。今の人間社会は二つに分ければ、人間と家畜しかいない。フィールドが変われば家畜が人間となり、人間が家畜となる。常に人間であり続けられる者などいないのではないか。ウォール街で数分ごとに億単位稼ぐ人間も、病気になれば医者の家畜として言われた通りにしか動けない。そこに本当の自分の選択は存在しない。

国家対国家の裏で繰り広げられる冷戦もそうだが、正義同士の戦いは『時間をひたすらお互いが歩み寄ること』に集約されていく。最高のシステムなど存在しない。ただ誰もが持たねばならないことは、今何が行われているかを知ることである。歩み寄ろうとしていることを互いが知っていなければ、衝突がなくなることはない。「無知の知」は最後の切り札としてしか使えないのだ。できることをやるだけやった人間のみが使ってよいツールなのだ。そうでなければ、今の世界は無秩序に発散していくだけで先には進まない。むしろ、進みすぎた結果それでは進めないのだ。
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